Interview

『文化振興の原点と経済人の役割』金城幸子氏インタビュー 前編

2019/1/31公開

ホテルサンパレス球陽館 取締役専務 金城幸子氏インタビュー 前編

金城幸子(きんじょう・さちこ)
1940年、横浜市生まれ。1964年「観光ホテル球陽館」に入社。現在も「ホテルサンパレス球陽館」取締役専務を務める。
ホテル業の中で文化を発信するユニークな活動を続け、沖縄をテーマにした「響き合う食卓展」では15年間にわたり若手に発表の場を提供した。2018年はサンパレス球陽館70周年に合わせて「70年の時を紡ぐ 染織と漆器と陶器」を開催した。

最終的には文化だなと思っているんです

-2018年はホテルサンパレス球陽館の創業70周年ということで、おめでとうございます。金城さんはホテルのお仕事と並行した個人での文化振興ですばらしいご活動を続けてこられました。どのような思いで文化に向き合ってこられたのでしょうか?

ホテルの仕事を50年続けてきたのですけれども、やっぱり最終的には文化だなと思っているんですね。外国の方にも自慢できる文化。沖縄のいいものを持っているということは、本土から来たお客様にも、外国の方にも誇れるじゃないですか。ホテルは文化を案内することも一つの役目だと思っているんです。とにかく女将としていいものをお見せしたい。お客様に紅型をお見せしたり、窯元にお連れしたりしながら、いいものを集めたいというこだわりで続けてきました。台風が来ると、お客様が外出できないので、私は持っているものを持って行ってお見せするんですよ。そうするとすごく喜んで下さいます。

今年(2018年)は球陽館が70周年という節目に、今がバトンを渡す時期じゃないかなという思いがあって、「70年の時を紡ぐ 染織と漆器と陶器」(主催:ホテルサンパレス球陽館、共催:沖縄タイムス社)を開催しました。やっぱり見せないと、いいものが何なのかは分かりませんね。そういう経験はしなければわからないわけですから、私の思いも一緒に、次の人にバトンを渡したいという気持ちで企画しました。

今につながっているのは感性豊かな人たちとの出会い

-那覇高校1年生のとき、思い立って東京に飛び出し、女学校に編入されたそうですね。金城さんの文化体験の原点はそのあたりにあるのでしょうか?

東京に行きたいと思ったきっかけは、ウルトラマンの金城哲夫さんと、それからのちにどこかの記者になられた森口さんという方が北海道から沖縄への初めての交換留学生で来ていたんです。うちの旅館が受け入れ先になって、話を聞いたらすごくインスパイアされて、絶対に外に出たいと思いました。6ヶ月かけて父を説得して、自分でパスポートも取りました。東京で泊まるところだけが分からないので、父にお願いしたら、崎山喜昌さんを紹介してもらいました。「沖縄のドン」のような方で、沖縄証券や沖縄テレビや沖映に関わっていらっしゃいましたね。崎山が私の東京のお父さんみたいになって、東京時代を過ごしました。

崎山喜昌(さきやま・きしょう、1908-1995):名護に生まれ、11歳で父を亡くし、15歳で上京。戦前は泡盛の卸売商で成功し、戦後になると東京で朝日製菓株式会社を創業しパン製造に進出、沖縄映画配給株式会社の東京支社にも関わる。その後、沖縄テレビ放送会長、九州東急ホテルチェーン取締役、沖縄証券会長、沖縄三越相談役、沖縄グラフ社長などを歴任。名護市名誉市民。名護市の生家跡地を「崎山図書館」として寄贈し、現在の名護市立図書館の母体となった。

東京の編入試験では、「あなたは日本語が話せますか?」って聞かれました。そういう時代だったんです。だから私は、「じゃあ私の話していることは通じてないんですか?」って言い返したの。私ね、テニスをしていたものですから、色が黒いの。私の先生が「黒ダイヤ」ってあだ名をつけてね、「磨けば光る」って。色が黒いからって、他の女生徒が私を見に来るんですよ。「あなた? 沖縄から来た子は?」って。この人たちって私を日本人と思ってないんだなって感じましたね。でもつらいことはなかったです。私は「見に来るなら見て」って、開き直っていましたね。オードリー・ヘップバーンと中原淳一の時代で、女学校に憧れて、宝塚を見に行ったりね。神田女学園というソフトボールの強い学校で、下町と山手の子が半々でした。逆にその頃は沖縄のことは何も知識がなかったですね。

表紙になった週刊朝日

崎山喜昌さんが「洋画巨匠展 明治・大正・昭和」という大きい展覧会をするというので、受付を手伝ったときに、洋画家の木下孝則さんに初めてお会いしました。すると突然、「君、おいで。ちょっとそこに立ちなさい」と言われて、「明日すぐにうちなーカラジを結ってこれるか?」って聞かれて、モデルになったんです。その絵が「週刊朝日」の表紙になってね。そこから木下さんともご縁ができました。やっぱり小さい頃からの体験で今につながっているのは、人との出会いなんですよね。いいものを持っている、豊かな感性を持っている人たちに出会ったということがとても大きいのではないかなと思います。


いつも綺麗なものを見るように心がけなさい

-沖縄に戻ってホテルの仕事に入られる前に、ハワイにも勉強に行かれたとか。

ハワイには6ヶ月間行って、どんなふうにホテルが進んでいるかを見てきました。当時は日本の旅館はどこも畳で、女中さんが部屋にお料理を持ってくる時代でした。私は「次はレストランだ」と思って、レストランを作るためにハワイに見に行ったの。沖縄の絣を着て、ハワイの空港に降り立って、上布の着物や麻の紅型の着物を着てハワイを歩きました。ハワイでもいろんな体験をしましたね。あの時は22歳くらい。沖縄では逆に、婚約記念のボーリング大会を開いたり、車にカンカラをつけてハネムーンに出かけたり、ハワイやアメリカの文化に影響を受けたことをしていましたね。

-生まれ育ったのは戦中・戦後の厳しい時代だったと思うのですが。

移民でペルーに行っていた父(球陽館の創業者・塩浜康盛)がスペイン語ができたおかげで、外国の方がいらして、うちは結構豊かでした。私が麻疹になった時はアイスクリームの缶を抱いていたんですよ。スペイン語のおかげでアメリカの人とも交流があって、私も英語が少し話せたし、周りの環境は隔てがなかったと思います。アメリカ人とか、どこどこの人というのではなくて、すぐに受け入れる。周りもそうでしたし、私の父もそうでした。

私のお花の先生は、「汚いものは見るな」って言いました。「いつも綺麗なものを見なさい」って。汚いものを見なければいけない時もあるけど、できるだけそういうものは見ないで、いつも綺麗なものを見るように心がけなさいと教えられました。それが今に続いています。

一ヶ月くらいトレーニングを受けてロージャースのモデルの仕事をしたこともあります。あの頃の沖縄には将校や大佐の奥様たちにハリウッドで活躍されていたような素晴らしい方がたくさんいて、ロージャースは年に1回、ファッションショーをしていたんですね。その時にレッスンを受けて、外国の人たちのマナー、帽子をかぶって、手袋とハンドバックを持って、ということも学びましたし、洋服のこともその時に修業させてもらったことが今につながっていると思います。

ファッションショーにモデルとして出演

終戦後、浮島通りに「スタイル」という洋裁店があったんです。私の姉と叔母がやっていて、姉が軍の将校の方たちの洋裁をしていたんですよ。だから私は小学校の頃からすごく洋服に恵まれていて、いつも可愛い服を着てたんですね。だから男の子に待ち伏せされて、桜坂を走って帰ったりしていました。当時は物がないから目立つわけね。私が着てたパフスリーブの洋服とか、ギンガムチェックの洋服とかっていうのは、「何もないのにあの子だけが着てる」っていうね、やっかみもあったかもしれないんですけど。着るものや食べるものに恵まれて育ちましたね。それが今でも続いているというか、ご縁もあってこういう風になったのかなと思います。美しいものからインスパイアされたいということは、小さい頃から常に求めてるというか、いいものを見たいという思いはずっとありました。

経済人が芸術の才能を育てることは大切な文化振興だと思います

-ハワイで半年学ばれたあと、沖縄に戻ってホテルの仕事に入られたことと、文化の企画やイベントを開催するようになったことは、どういう流れだったのでしょうか?

自然体ですね。そういうチャンスに恵まれたらできるじゃないですか。私は自分がいいと思ったら責任を持ちます。リスクを取ってでもこれはやるんだということをずっと続けてきました。「ターシャ・テューダー展」も二回やりましたし、「瀬戸内寂聴展」もやりました。ただ「70年の時を紡ぐ 染織と漆器と陶器」で私は最後だからと息子に言いました。

東京に行っていたので、沖縄に戻ってきたときに、やっぱりいいものを見た経験があると比較しますよね。稲嶺一郎さんがたくさんの比較を持ちなさいとおっしゃっていました。あれよりは今がいい、あれよりは今は悪いという多くの比較を持つことが大事だよって。本当にそうだと思います。ああ、あの時は本当に辛かったけど今の方が楽だわ、とかね。比較を持つということは、いいものをピックアップするということ。そしていいものを差し上げる。文化を紹介するためには、いいものを差し上げることを誇りに思うことですね。たとえば戦後の大変な時代に窯買いをしたりね。稲嶺一郎さんは金城次郎さんの作品を窯買いしましたね。経済人がそうやって工芸を支えていたことはとても大きいと思います。今はお金があっても、そういう出し惜しみしない人がいないじゃないですか、残念ながら。

いいものを見つけて、若い人たちを育てる力っていうのは、経済力がないといけません。何度もパリに行って思うのは、やっぱり育てていますよね、パトロンがいて。沖縄にはそれがちょっと少ないなと思いますね。経済力のある方々が、才能豊かな人たちをどんどんピックアップして育てるということは、文化振興の中でも大切なお仕事だと思いますけどね。

-経済と文化の関係では、「文化にお金を使うとどんなメリットがあるのか」という考え方が日本中に広がっています。お金のある層と文化で新しいことをしたい層がうまく交わらず、つながりが少ないのが現状です。何かお考えやヒントはあるでしょうか?

私もすごく残念に思うんですよ。着物や工芸の作品を買ってつながると、声をかけやすい関係になります。「多分あの人に言えば、これを買ってくれるんじゃないかな」って。ただそういう関係をつくるためには努力しないといけないし、やっぱり宣伝は大事なんだよっていうことを若い人たちに植え付けることがこれからの仕事だなぁと思っています。いいものを発見しても、いいものがあるという情報にならないと、分かってもらえないですね。

やっぱり出会いをつくることですね。私どもはお泊りのお客様にいろんなことを聞かれます。そのときは必ず私が出て行って、説明をしてあげて、どこどこにいらしたらいいですよってお話します。今はネットでいろいろ探せる時代ですが、ネットでも見落としているものもあるかもしれませんね。あるいは出たがらない方もいます。やっぱりそういう人たちに出会うチャンスがほしいなと思いますね。本土の方に見ていただきたいと同時に、沖縄の方にも見ていただきたいですね。沖縄の方が沖縄のことをあんまり知らなすぎると思います。本土の何千万円もする着物もいいかもしれないけど、沖縄は沖縄の文化ですよね。それはもっと強調した方がいいんじゃないかな。まずは足元を大事にしないと。本土の人の方が沖縄のものを持ってますよ。芭蕉布展のときも芭蕉布を着ていた来場者はヤマトの方でした。

私はフットワークがいいんですよ。これが全て。いいと思ったら飛び出しているから。それで自分で確かめて、ああこれなら大丈夫って、確信を得て企画してる。文化だけじゃなくて、今でも市場で毎朝仕入れをして、お客様に沖縄の安全で安心な食事を食べていただきたいっていうライフワークを続けています。やっぱりいいものを見せる機会を作らないと、なかなかみなさん動かないじゃないですか。私は昔から好奇心とフットワークは良かったんです。その二つで動かしてる。その二つに動かされているのかもしれないですね。

2018年12月7日収録
聞き手:沖縄県文化振興会 林立騎、宮島雅行、高良真由美


<取材協力>
ホテルサンパレス球陽館
公式ウェブサイト https://www.palace-okinawa.com


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